直感につながる

☆シックス・センスのない人はいない

シックス・センス(第六感)とは、いったい何なのでしょう。特別な人だけが持つ不思議な能力で、自分には関係ないものだ、と思い込んでいる人も多いのではないでしょうか。けれども、もしもそれが誰でも持っている五感という能力と同じように、まったく自然なものであったとしたらどうでしょう。誰でも生まれつき持ってはいるけれども、いったいそれが何なのか、そしてどう使ったらいいのかが分からないでいるだけだ、としたらどうでしょうか。

けれどもどうやら、それが本当のところのようです。私は長年このシックス・センス、第六感につながるためのワークショップをリードしていますが、いまだに第六感のない人に出会ったことはありません。もちろん普通の人は、今評判の映画「シックス・センス」の男の子のように、うろつき回る死人が見える、といったようなことはないでしょうが。

肉体と同じく、感情やマインドも個々人によって異なり、第六感、つまり、私の好きな言葉で言えば直観ですが、それも人それぞれです。とはいえ、誰でも自分にとって自然な方法で、その能力を発達させることは可能なのです。

☆なぜ、人は自分の直観とつながっていないのか

それならば、どうしてほとんどの人が、本来そなわっている直観の力に、まったく、あるいはほんの少ししか気づいていないのでしょう。 その答えは、私たちがまだごく小さなころに受けたしつけにあります。

人間のマインドはコンピューターのようなもので、それが機能するためには、ソフトウエアが必要です。このソフトウエアは、子供時代のプログラミング、条件付けと呼ばれています。私たちは生まれ落ちたときから、自分が生まれついた社会や家族の価値観に従って行動するようにしつけられ、行儀作法として、よい悪いという判断を、直接的に教え込まれます。また、子供自身が周りの大人をまねることから身につくものもあるでしょう。子供のマインドはまっさらで空っぽなので、ものすごく大量の情報を、まるでスポンジが水を吸い込むようにすばやく吸収します。そしてすべての経験はマインドに刻印づけられ、すべての出来事があとを残します。

このこと自体は、問題ではありません。ただ、ほとんどの社会は、私たちに自分自身の判断、経験の純粋さを信じないように教え込みもするのです。このプログラミングに乗っ取られる前には、この子供は周りにあるものに直接触れるだけではなく、自分が切り離されているという感覚も持っていません。子供は自分を分離した存在だと感じさせる感情やマインドのフィルターなしに、物事をありのままに見るのです。こうした子供の素直さや無邪気は、私たちを喜ばせ、感動させます。ありのままに世界を受けとめ、感応する、この結びつきの声こそが直観なのです。

子供がこういったつながりを失ってしまう理由はただ一つ、その方が安全だから、楽だからです。子供の頃の私たちは非常に傷つきやすく、他人を必要としていました。傷つかないためには、愛と注目を得るためには、自分自身を信じるよりも他人が言うことに従った方がいい、ということを学んできたのです。私たちにとって何より大事だったのは、まず人並みになる、そして人より優れるということであり、何であれ、人から認められるということでした。そして私たちは次第に自分の直感、内面の感覚を、身の保全と安心感のために売り渡していったのです。そして、こうした取引によって、非常に貴重なものを失うことになります。

それを自分からあっさり手放す人もいれば、あくまで反抗し、抵抗し、自分の真実に固執し続ける人もいますが、ほとんどすべての人たちが、結局はあきらめざるを得ません。外からの圧力があまりにきつくなり、あまりに危険になるため、ほとんどいつも、譲歩せざるを得なくなるのです。

このプロセスは、学校教育を通じて、家庭から社会へと、さらに拡大していきます。私たちは学校の環境に順応しなくてはならないだけではなく、何年も何年もほとんど意味のない膨大な情報によって苦しめられ、自分の価値は、その情報をいかに巧みに覚え込むかにかかっていると教わるのです。こうした死んだ知識を扱うのにたけていれば、ちやほやされ、うまく出来ないと、まるで自分がだめな人間であるかのように感じさせられる。事実はこうなのですから、もはや学校教育を終えるずっと前に、私たちは自分なりの真実につながることができなくなってしまうと言っても、驚くには値しないでしょう。

より原始的で、素朴な文化においては、人々は自然に内なる感覚に結びついていますが、社会が高度になり、構造化されればされるほど、こういったプロセスはより強力に、完璧になっていく。そして日本はおそらく、もっとも強固な社会構造を持った国の一つです。

☆今までのパターンを脇に置こうと決めた瞬間、もう直観はそこにある

けれども、直観との結びつきを失ってしまったからといって、がっかりする必要はありません。考えたり感じたりする能力がなくなることはないように、それはただ、マインドのパターンの背後に隠れているだけなのですから。今までのパターンを脇に置こうと決めた瞬間、もう直観はそこにあるのです。しかし、それは危険なことでもあります。だからこそ、そもそも私たちはそれを脇に追いやってしまったのです。内なる声が、私たちがあらかじめ持っている信念にそぐわないことを言うことだってあるでしょう。 こうした条件付けされた信念というのは、自分は正しいこと、よいことをしているのだと思うことによって、自分自身を安全に保っておくよう働き続けるものなのです。世間の意見に従うことで、私たちは非常に大きな安心感と力を得ます。それがために、私たちは戦場に行き、人を殺すことすらしかねません。

にもかかわらず、あるとき、私たちは自分の人生に何かが欠けていると感じ始めます。自分自身に結びついていないがために、いったい何を欲しがっているのか、どこへ行きたいのかも分からない。その感覚は、物事が思うように運ばないとか、悪あがきをしているような感じとしてやってくるかもしれません。あるいは、何もかもが空しいという感じがあるかもしれません。何であれ、まずそれをそれと認めることによって、人生において、本質的なことが始まります。

それならば、どうしたらいいのでしょうか。まず必要なのは、直観は存在するし、実際自分はそういう能力を持っているのだと信頼してみること。この信頼がなくては、そんなことはばかげているとか、どうせうまくいきっこない、という思い込みが邪魔をしてしまうでしょう。そして次のステップは、直観が持っている香りや感触、手触りといったものを見分けるということ。

あなたにふさわしい方法を見分け、それになじむためにも、グループでのトレーニングは非常に役に立ちます。ワークショップの状況では、論理的なマインドを脇にどけて信頼するのがずっと楽ですから。「直観の流れ」のグループでは、合理的なマインドから距離を取るために、さまざまな瞑想のテクニックを使っていきます。そして、何が起こっているのか判断しようのない状況、つまりマインドが意見や欲望を投影できないような状況を設定し、いろいろなエクササイズをしていきます。ほとんどの人は、直観の感覚は常にあったけれども、気づいていなかっただけだったという事実を知って非常に驚き、またとても大きな力づけを得ます。

☆直観につながればつながるほど、私たちは存在の流れの中に自分を見出す

そして、直観につながればつながるほど、私たちは存在の流れの中に自分を見出すようになります。というのも、直観の声は、私たち一人一人の内にある存在の呼び声なのですから。そして私たちがその声を聞き、それとともに動くとき、私たちは正しい時に正しい場所にいるという確かな感覚を得ることができます。論理的なマインドに耳を傾けるときには、葛藤や疑いは免れませんが、直観の声は、生命の流れを信頼し、その中にくつろぐスペースへと私たちをいざないます。そして、その声に従うとき、周りで起こっていることとの間に、深い調和と一体感とを感じることでしょう。それこそ、私たちが心の奥底で常に求めてやまないことなのです。(Fili50号 2000年・掲載)

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