観照こそ、唯一の道
「生命は決して老いず、古くもならない。
ただ、心だけが古くなる、
そうなれば、あなたは見逃す」
光明を得たインドの神秘家Oshoのこの言葉は、老いに潜んでいる深い問題を要約しています。
身体は老いて死ぬでしょう。それは自然なことです。
しかしOshoが言うように、悲劇的なのは、身体が老いるよりも前に、私達自身が古びて硬直してしまい、人生に新鮮さも魔法も感じられなくなること。心は過去から未来へと、線路を走る列車のように水平に存在しています。私たちは今の体験を、過去を振り返って判断し、比較し、ラベルを張ることに忙しく、生がこの瞬間に差し出しているものを受け取ってはいません。
そうなると、人生は退屈で、変わり映えのしないものになり、さらに皮肉なことには、死がやってきたときに、まだ自分は十分生きてない、まだ死ぬわけにはいかないと、生にしがみつくことになるのです。
意識は垂直に、この瞬間にだけ存在しています。
人生に意識をもたらせばもたらすほど、身体の状態がにかかわらず、生はみずみずしい、自由で魅惑的な、喜びに満ちたものになります。それは不思議ではありません。
精神性の道における偉大な師は常に、「今ここ」こそが唯一のリアリティだと主張しています。しかし心は生き残りを賭けて、この単純な事実を避けようとします。私たちがこの瞬間に意識とともにあるとき、心はありません。もう存在しないのです。
生における究極のゴールは、過去に対して死ぬことだ、とOshoは言います。そうなれば死はたんに、肉体という家を後にするようなものになります。そのための唯一の方法は、意識的な生を送ること。
もちろん座禅やヴィパサナのような形式的な瞑想や、Oshoのアクティブ瞑想も助けとなりますが、日常の生活のなかで、今やっていることに気づきをもたらす習慣を育てることも、同様に変容をもたらします。
バスや電車に乗るとき、妄想にふけったり、うたた寝をしたり、本に夢中になるのではなく、その体験に対してしっかりとあること。
道を歩くとき、目的地にだけとらわれないで、目の前の店や人々や、その瞬間の気分に気づいていること。
人と関わるときに、機械的に役を演じるのではなく、目を見開いて、相手の実際の姿と関わること。
あらゆる瞬間に、判断や結論や偏見に我を忘れるのではなく、意識とともにその場にあることです。
この瞬間にあることはまた、内なる深遠なる次元を探求しよう、知識や判断という安全で快適な場所を超えて見ようとする意欲を意味します。
タロットや数秘学、成長と気づきのワークショップなど、そのためのツールはたくさんあります。
気づきにコミットすることで、人生に無邪気さを取り戻し、肉体の死がたんに古着を脱ぎ捨てるような意識状態へと開いていくことができるのです。